楽屋弁当とは?
演劇公演の場合、本番前の1ヶ月間、稽古場での稽古を行います。
本読み、荒立ち、立ち稽古、止め止め通し、通し稽古と進み、それが終わると、公演劇場に入ります。
劇場は通常本番4日位前にスタッフだけが入り、まる1日かけて、大道具、小道具、照明、音響、衣装、床山、その他様々な専門スタッフが仕込みと云う、本番に向けての準備を行います。
それが終わると、翌日から俳優が舞台上に上がり、本番通りの稽古を行います。
これを「舞台稽古」とか「ゲネプロ=GP」と呼んでいます。
「ゲネプロ」はドイツ語の「Generalprobe」(ゲネラールプローぺ)の略です。
これは和製ドイツ語ですが、今ではドイツ本国でも「ゲネプロ」と言っているそうです。
舞台稽古は朝9時に、劇場にスタッフが入り、俳優が朝10時頃に入ります。
そこから、いろいろ準備を進め、午前11時ごろから、夜の9時ごろまで稽古が続きます。
昼食、夕食の休憩はありますが、稽古の進行具合によって何時に休憩が取れるかはわかりません。
しかも、各パート(俳優・舞台スタッフ・照明・音響・衣装・床山など)によって休憩時間が異なります。
例えば、俳優が休憩の間、スタッフは舞台上で照明の直しや、スピーカーバランスのチェック、大道具の不具合などを直す時間に充てます。
働き方改革とは逆方向しますが、稽古の進行具合によっては、食事の時間が1時間も取れないこともあります。
初日の幕が開くまでは、1分1秒を惜しんで、スタッフ・キャストは、全精力を舞台に費やします。
当然、劇場を出て食事に行くということはできません。
その時に、プロデューサー側が用意するのが「楽屋弁当」と呼ばれる、仕出しの弁当です。
プロデューサーの素質がわかる、楽屋弁当の注文数
このお弁当は、昼と夜、公演担当の現場プロデューサーが用意します。
公演プロデューサーとは、主に稽古開始から東京公演の本番、全国公演がある場合は全国公演終了まで、現場に張り付き、スタッフ・キャストとのお世話や、チケットの注文受け、全国公演の切符手配、ホテルの部屋割り、健康管理、全国公演の主催者との交流などが主な仕事になります。
新人の場合、つい自分の好みに偏って、昼も夜もトンカツ弁当を用意してしまった。
などという失敗を犯すこともあります。
楽屋弁当はキャスト・スタッフ、その他、劇場内にいる関係者の全てに用意します。
弁当が足りなかった、などは言語道断ですが、逆に余った、というのも公演プロデューサーとしての管理能力が低いとみなされます。
余らせてしまった弁当の数の、許容範囲は全体の8%前後です。
50人分用意した場合、4個です。
結構厳しい基準ですが、それ以上余らせた公演プロデューサーは「能無しプロ」とか「ボロデューサー」とかの烙印を押されます。
公演プロデューサーは、やがてチーフ・プロデューサーという、公演の総責任者という立場になります。
これは作品選定、公演プラン(公演規模など)、演出家、主要スタッフ決定、キャスティング作業、予算作成、予算執行、営業販売総指揮などです。
当然、作品の出来栄えや興行の成功を担う、重要な役目です。
様々な能力が必要とされますが、とりわけ管理能力が問われます。
予算、決算、スケジュール、チケット販売、営業促進、広報宣伝計画など、全てに必要なのがこの管理能力です。
この管理能力を判断するのに、楽屋弁当発注数の的確さが問われます。
実はこの仕事、大変難易度が高いです。
初日前の舞台稽古には、不特定多数の関係者がいる
ランニング・スタッフと言って、本番を進行するための人数だけなら、スタッフ・キャストとも人数が決まっていますので分かります。
しかし、舞台稽古の劇場にはそれ以外の人がたくさん入って来ます。
例えば、俳優のマネージャー・ランニングスタッフ以外の仕込みの間だけ手伝う、舞台、照明、音響、衣装・床山の各増員スタッフ、メインプランナー・大道具、小道具、衣装などの業者、そして取材のメディアスタッフなどです。
この人たちは、決まった時刻に決まった時間だけいるわけではなく、その都度、不定期に来たり、帰ったりします。
例えばある舞台稽古の場合、昼食の時間にいる人数が63人だとしても、夕食時には96人だったりする事は、ごく当たり前のことです。
実際の舞台稽古での状況ですが、ランニングのベースの人数は42人、昼前には仕込みのための補助要員や俳優の事務所マネージャー、その他、急遽、特別な機材が必要になって、それを届けに来た照明スタッフなどで、劇場の中には63人という状況です。
しかし、夕食時には昼前にいた6人が帰り、俳優事務所のマネージャーや取材スタッフが新たに14人入って来て、合計68名なっていたがあります。
本番を行うランニングのスタッフとキャスト以外には、楽屋弁当を出さなければいいという考え方も、もちろんあります。
確かにそうやっている劇団もありますが、私が居た頃の劇団こまつ座は、井上ひさしさんのモットーもあり、劇場内にいる人はみんな関係者で、一緒に舞台を作り上げる仲間である。
そういう風に考えていました。
ですから、たまたま昼食時にいた人にも、楽屋弁当が振舞われました。
それに、弁当発注数は公演プロデューサーの力量を測るための、指針にもなりました。
プロデューサーとしては「そんなに劇団に余裕があるなら、ギャラを上げてくれ」とか言われるのでは?と心配したのですが、そこは、同じ弁当を食べている人たちは「美味しい、ご馳走様でした」とは言え、「ギャラを上げてくれ」などという人はいませんでした。
さて問題は、常に変動する劇場内の人数を正確に把握し、いかに誤差を抑えるかという事です。
舞台裏の妖怪「食え食え入道」
この実に悩ましい弁当注文を、正確に成し遂げることにより、プロデューサーとしてのステップを登っていくことになります。
しかし、公演プロデューサーにとっては、この作業に大変苦労しています。
良くて10% 悪ければ20%近い誤差がでます。
50個の注文で5個の余りで10%、70個の注文で14個の余りで20%。
これでは「超無能プロデューサー」の烙印が押されます。
しかし、予定通り行かないのが舞台稽古であり、そこに集まる人数の把握は不可能に近いです。
どうしても弁当を余らせてしまった、担当プロデューサーはどうするのか?
甘んじて「無能」の烙印を受ける者もおりますが、その多くは、余った弁当を自分で食べます。
一人で、2個も3個も腹が痛くなるくらい食べます。
それでもなお、数が余っている場合は、舞台裏の暗闇に潜んで、そこを通る、・沢山ご飯を食べそうな若手スタッフの首根っこを押さえ込み「弁当、食ったかあ?」と尋ねます。
もし「食ってません」などどいうものなら「コラ!早く食え!罰として二つくえ!」と、何の罰かわかりませんが、若手スタッフが「二つ喰います!」と言うまで、首を絞め続けます。
若手スタッフ達の間では「舞台裏の妖怪・食え食え入道」と言って恐れられています。
この妖怪は弁当を余らせてしまった、公演プロデューサーの成れの果てと言われています。
残念ながら、この妖怪に捕まると、たとえ返事が「はい、もう食べました」と答えても、
「もっと食えぇぇぇぇ!」と首を絞めてくるそうです
奇跡を起こす、事前準備
そんな、状況の中で、私が公演プロデューサーだった時代、それが50食だろうが、100食だろうが、余りゼロを続けました。
あまりに正確に弁当数を発注するので「天才・プロデューサー」とか「神様」「楽屋弁当の申し子」などと呼ばれておりました。
そのせいかどうか分かりませんが、私の修行時代はとても短く終わりました。
では、どの様に弁当を注文していたのか?
昼の弁当は午前9時に発注数の電話を入れ、劇場には午前11時30分に届けてもらう約束をします。
夕食の発注は午後3時に電話を入れ、劇場には午後5時に届けてもらう約束です。
私の場合は、主に伊勢丹と小田急のデパ地下のお弁当屋さんにお願いしてました。
発注数はいつもギリギリでした。
50個、60個、場合によっては100個のお弁当をお願いするのですが、これを新宿・紀伊國屋ホールの楽屋がある、紀伊國屋書店5階まで届けてもらうのですが、運ぶにも人数のいる大変な仕事です。
そこで、私は届けてくれる時間の30分前に、お昼でしたら午前11時。
ロビー受付に来ている4人の学生アルバイトを連れて、お弁当屋さんに向かいます。
中島「すみません、お弁当お願いしたこまつ座の中島ですけど、ついでがあったもので、お弁当を取りに伺いました、店長さんいらっしゃいますか?」
店長「あっ、中島さん、今、お届けしようと思ってたんですが、ごめんなさい、こちらからお届けしますから」
「いえ、ついでですから、持って帰ります」
「えー、すみませんね、助かります。少し待ってていただけますが、今、箱に入れますから、5分ほど‥」
中島「大丈夫ですよ、お気になさらないで、忙しい時間にすみません、ここで、待たせていただきますから」
店長「急ぎますから」
中島「気にしないでください」
そう言いながら、ほんの僅かな時間だが、待っている間、アルバイトにはショーケースを見ながら
「これが美味しそだ」
「俺は、こっちが好きだ」
「これこの前食べたけど美味かったぁ」
「えっ、じゃあ今度、絶対に買おう!」
などと、サクラめいた事をやらせます。
アルバイトには早稲田や東大の劇研の学生を雇っていたので、皆、面白がってやってくれますし、お店も有り難がってくれました。
弁当が箱に詰め終わると、新宿伊勢丹もしくは小田急デパートから、1人20個ほどの弁当が入った段ボールを、アルバイトと私とで運びました。
勿論、新宿の雑踏の中運ぶのは大変ですが、その分、お弁当屋さんには大変感謝されました。
これで、事前準備は完了です。
劇場内で、最初に食べ始める俳優が12時です。
昼食の弁当、夕食の弁当と言っても、演劇公演の場合、先も話したように、昼は12時、夕方は19時というように、決まった時間ではありません。
昼休憩の場合、最初に休憩に入るのは、俳優です。
これは、食事の後、メイクや衣装を整え、午後から始まる稽古にスタンバイをしなければなりません。
稽古開始は舞台稽古の進行状況におよりますが、大体、午後2時くらいのスタートですので、俳優の休憩時間は12時からとなります。
次に休憩に入るのは、衣装、床山(ヘアメイク)が、俳優に絡む仕事なので、ほぼ俳優と同時に休憩に入ります。
これが大体12時20分前後、
次に休憩に入るのが、トラブルがなければ照明、音響のスタッフ。
これは午後からの稽古開始時点での、スタンバイを完了させてから休憩に入りますので、大体12時40分位からになります。
そして、舞台関係のスタッフで一番で、こちらは大道具、小道具、その他、午後の稽古までに。修正が必要な箇所を直してからの休憩になります。
時間にすると、午後1時くらいです。
劇場内で一番最後に、食事休憩を取るのが、制作部です。
これは劇場のロビーを飾ったり、販売物を並べたりするスタッフや、当日券売り場の設置などを行う部署で、統括者はプロデューサーになります。
制作部の場合、大抵のスタッフは直接舞台上のパフォーマンスに絡まない仕事がほとんどです。
ですから、休憩も舞台稽古の進行とは直接関係なく、取ることができます。
実は、この各セクションの食事休憩のタイムラグがポイントです。
いよいよ、中島の弁当注文数の微調整技
12時の俳優がスタートで、各スタッフが順次、昼食に入ります。
この時点での弁当の発注数は、舞台稽古に関わる、全スタッフ、キャストの定数です。
予備はいっさい入れてません。
つまり、俳優とスタッフが総勢60名だとすると、発注数は60個です。
12時に俳優が食べ始めてから、最初のスタッフが食べる12時20分には、おおよそ劇場内に残っている、昼の弁当を食べる人数が判明します。
勝負はここからです。
12時20分の時点で判明した必要数は、9時の段階で発注した数が、余ることはなく、足りないケースがほとんどです。
足りない数が判明したら、すぐ、お弁当屋さんに連絡を入れます。
その時間は、昼時で大変忙しい時ですが、午前中にこちらが弁当を取りに行っていることもあり、快く追加注文に応じてくれます。
電話をかけると、直ぐ、ロビー受付のアルバイト学生2人を連れ、お弁当屋さんに向かいます。
紀伊國屋ホールからですと、伊勢丹なら10分弱、小田急なら15分前後で行けます。
そこで、追加注文をした弁当を受け取り、アルバイト学生と一緒に、新宿の雑踏の中、劇場に運んで行きます。
その時の時刻は、13時位で、劇場内に居る関係者の多くが、弁当に手をつける少し前です。
追加注文の微調整のおかげで「今日も、中島公演プロデューサーの弁当発注数はピタリですね、凄い!」
と、お褒めの言葉をいただきます。
私は「別に、ちょっと計算すれば、誰だって分かりますよ」とか言って、なるべく「そんなに大したことありませんよ」という顔をしてました。
スタッフや俳優からも
「中島くんは何で弁当の数が正確にわかるんだろう?」
「何か神がかっているよね」
「何か、天性のものかな?」
皆が不思議がり、やがてそれがあの公演プロデューサーはひょっとして天才かもしれない。
ということになりました。
総括
未来を的確に予想できる人間はいません。
まして、何が起こるか分からない舞台稽古の正確な人数は、絶対に把握できません。
そういう時は、少し考えて未来を作ることができれば、やってみる事です。
やってみれば、実に簡単な事でした。
できないことを必死でやろうとしないで、出来ないと諦めると「じゃあどうする?」
と、次の手を考えることができます。
一見すると、諦めたように見えますが、そうではなく、何か違う方法はないか?
それを考えるには、今ある方法に固執しないで、バカバカしい方法でも、考えてやってみることをお勧めいたします。
多分、人生が楽しくなります。