舞台スタッフ青春記、全国公演トラックの旅

 学校を卒業した中島が、劇団研究生1年目として初めてスタッフでついた舞台が、
劇団芸能座特別公演、永六輔・作、小沢昭一・演出「純情二重奏」という作品でした。

 当時、法律で禁じられていた「尺貫法」をテーマにした作品です。

 出演は小沢昭一、永六輔、内海桂子・好江、山口崇、山谷初男などで、

 公演会場では「尺目盛」(法律違反)の物差しを売っていました。

 開演前に永六輔さんが、近くの交番へ行って「これから僕は法律違反をしますから逮捕してください」

と、毎日やってました。

 お巡りさんは困って「今、忙しいから、あっちへ行ってくれ」と言って、交番の奥へ逃げて行きました。

 そんな変な劇団の研究生1年目、22歳の春でした。

 研究生の2年先輩には、後の新国立劇場演劇部門芸術監督になった、巨匠栗山民也氏がいました。

 劇団の演出部研究生として、稽古から東京公演に終えた私たちは、それから数ヶ月に及ぶ全国公演に出発いたしました。

演出部研究生のギャラと旅公演先の食事代

 劇団内では栗山民也氏を「クリさん!」

 栗山さんは私を「中島!」

 とそのまんまですね、そう呼び合っておりまして、後に栗山さんが新国立劇場の芸術監督になって、私が演劇チーフ・プロデューサーになった時でも、お互い「くりさん!」「中島!」と呼び合っていました。

 ところで、芸能座の演出部研究生は、他の劇団の養成所研究生と違って「ギャラ」が貰えました。

 「ギャラ」という名称は、俳優の出演料のことだけかと思っていましたら、現場スタッフへの給金も「ギャラ」と呼ばれていました。

 もらう時に、プロデューサーから「はい、ギャラ」と言われた時は、なんか芸能界!って感じで、ちょっとうれしかったです。

 研究生1年目の4月が稽古期間、5月に東京公演、紀伊國屋ホールでの本番が20ステージありまして、もらった「ギャラ」が6万円でした。

 内訳は稽古期間が3万円、本番が1ステージ1,500円で20回だから3万円で、合計6万円也ということでした。

 この研究生のギャラは1年ごとに500円増えるので‥私より2年先輩だった栗山さんは1ステージ2,500円の20回ですから、本番5万円、稽古がおそらく同じような感じで5万円で10万円だったと思います。

 つまり私が月額3万円、2年先輩の栗山さんが5万円ということでした。

 でも、他の劇団だったら研究生が月謝と払っていた所もあったようなので、恵まれていたのでしょうが、それにしても月3万円はお小遣いですね。

 これが全国公演に出ますと、1ステージ500円上がって、私は2,000円になって、栗山さんはなんと
3,000円でした。

 そしてそれとは別に旅公演は、昼の食事代として毎日800円貰えました。当時は確か旅館で朝と夜の食事が付いていましたから、その800円を10日毎に,000円を貰っていました。

 ホテルに宿泊すると、朝食、夕食がついてない時は‥確か朝食700円、夕食1500円位だった気がします。

現在はもう少し増えていると思います。

多分、朝800円、昼1000円、夜1500円くらいだった気がします。

兎に角、貧しい研究生には「ギャラ」よりも魅力的でした。

 劇団の演出部には研究生の他に、プロの舞台スタッフも数人いて、その人たちが我々の師匠として指導に当たっていました。

 ですので、我々はまあ、見習というか丁稚みたいなものでしたから「ギャラ」は安くても仕方ありません。

研究生救済システム

 そんな貧しいというか、赤貧の劇団研究生が私を含めて4人いました。

 研究生3年目の栗山氏と2年目の柴沼氏、そして1年目の私ともうひとり、私と同期に入った佐藤くんの4人です。

 東京公演の千秋楽近く、私たち研究生4人が師匠にあたる、舞台スタッフのひとりに稽古場に呼び出されました。

 稽古場に行くと「旅手帳」という文庫本ほどの大きさで、表紙は今回の「純情二重奏」の台本そのままの表紙でした。

 一見すると、小さな台本のようです。

 中身は日程表になっていて、開いて左のページに1日の予定、右が白紙のメモとして使えるようになっていました。

 左の予定表のページには大雑把に下のような項目がありました。

 10月3日 火曜日

移動 新大阪 10時10分発 〜新幹線ひかり○号〜 11時15分着 岡山

市内移動  タクシー 立替

会場 岡山市民会館

住所 岡山市岡山1−1−1  
電話 00(0000)1111

仕込み開始12時   開場18時   開演18時30分

宿泊 ホテル・ニュー岡山

住所 岡山市岡海2−2−2 
 電話 00(111)3333

朝食あり  昼食:なし  夕食:なし

ページ

これらの項目が表組の中に入って書かれていました。

「じゃあ、今回は1区間2名乗車で振り分けるから、日にちと移動行程を言うから、希望者は手を挙げろ」

 一体何が始まったのかと言うと、劇団のメンバーが移動する場合、俳優もスタッフも公共交通で特急や指定席がある場合は、基本的にそれで移動します。

 それとは別に舞台で使う大道具、小道具、衣装、カツラ、照明や音響機材などはトラックに積んで運びます。

 トラックは11トンの大型のもので、運転席からは普通の車の屋根を見ながら走ります。

 最近はウィング式の荷台になりましたが、当時は平ボディと言って、参考写真を探したのですが、無料で使える写真は、このようなものしか無かったので、すみませんこれで一生懸命に想像を膨らませてください。

平ボディーと言われる、荷台
実際の11tトラックはこれより大きいです、
こんな感じも幌、我々はシートと言っていましたが、テントを作るような丈夫な布製のものです。

 

 

 写真1のような、荷台に大道具や小道具、その他を積みます。

 劇団の公演で移動する場合は、11t大型トラック満載になります。

 積んだ荷物をロープで固定し、

 写真2のような布製の幌を被せて完成です。

 現在はジュラルミン製のウィングで守られますが、当時はこの布シートでその下に直接大道具や小道具がありました。

 トラックは舞台装置専門の運送会社のプロドライバーが運転するのですが、万が一、移動中に荷が崩れたり、交通渋滞で仕込みまでにトラックが間に合わないなどのトラブルに備えて、演出部スタッフが同乗するのです。

そして、スタッフがトラックへ同乗した場合、電車移動で掛かる運賃、そのほか特急料金、指定席料金がある場合はそれを、そのスタッフに「上乗り」(うわのり)代金と呼んで支給されることになっていました。

 そしてそれは、貧しい研究生が優先的に「上乗り」させてもらえたのです。

栗山民也氏の動きが怪しい‥

 演出部研究生の4人は「じゃあ、名古屋から岐阜の移動」と師匠にあたる舞台スタッフが言うと、その区間トラックに乗りたい者が手を挙げる方法で、上乗りの当番を決めていく事になりました。

 1区間の上乗りに研究生2名と言うことで、始まりました。

「じゃあ、焼津から浜松、やりたい者」

 師匠の問いかけに、皆、どうするか上を向いたり、首を斜めにしたりして考え始めました。

 ふと見ると、栗山さんだけが「全く興味がないと言う表情です」

「?」

やがて、柴沼氏と佐藤くんがおもむろに手を挙げました。

「じゃあ、ここは柴沼と佐藤」

「次が、浜松から名古屋」

言い終わらないうちに、栗山さんがさっと手を上げました。

やばい、これは何かある!

そう思って、私も慌てて手を上げました。

「じゃあ、ここはクリと中島‥次」

 この調子で、終わってみると、栗山・中島チームと柴沼・佐藤チームと上乗りのチームがはっきり別れました。

11トントラックで、にわかトラック野郎に

 旅公演がスタートすると、公演が終わった日は、その地に宿泊し、翌日の午前中に次の土地へ移動します。

 前日が浜松公演であれば、終了後は浜松の旅館もしくはホテルに泊まり、翌朝、浜松駅から次の公演地、たとえば豊橋とか名古屋に移動します。

 電車で1時間、2時間の距離でも、トラックは少なくともその倍の時間かかります。

 ですから皆が8時にホテルを出る時でも、上乗りの演出部研究生チームは6時頃に出発します。

 ちょっと聞くと大変なようですが、普段乗ったことの無い、大型11tトラックの助手席から見る景色はとてつもなく面白いモノでした。

 大袈裟に言えば、空中を飛んでいるような気分です。

 周りのクルマは、みんな地を這うように走っていて、こちらはそれを見下ろして走ります。

 街の看板もすぐ近くにみえ、信号機にも手が届きそうです。

 トラックが時々放つ「排気ブレーキ」の、なんとも言えない迫力ある音や、11tトラックが唸りを上げて加速する時のディーゼルエンジンの叫び声。

 こんな面白くてカッコいい事があったんだ!
 はっきり言って世界が変わりました。

 トラック同士がたまたまですが、高速道路を隊列のように走る時なんかは、全然知らない運転手さん達でも、なんか連帯感に包まれます。

 ドライブインでは、自分が普段運転するクルマは小型というパーキングスペースに入れますが、トラックは当然、大型のパーキングコーナーです。

 大型のパーキングコーナーにトラックを着けると、運転席と反対のドアを開いて、少しカッコつけながら、少し勇気を出して、地上に飛び降り、ガニ股で歩きます。

 「トラック野郎」です。

トラック野郎なら、必ず食べなければならない
「豚汁定食」

 パーキングのレストランで食事をする時は、普段なら
「和風定食」なんか食べてしまいますが、「トラック野郎」ですから、当然「豚汁定食」1本です。

 そうなんです。

 色々なドライブインで、全国のトラック野郎達とご飯を食べましたが、みんな「豚汁定食」を食べていました。

 最初の頃、私が知らずに「かき揚げ天蕎麦」なんか頼んで、嬉しそうに啜っていますと、

「フン、トーシロー」といった蔑みの視線が、あちこちから飛んできました。

 そこで学んだ私は、トラックの上乗りで高速道路のドライブインに入ったら、どんなに胃が重くても
「豚汁定食」を頼み、ガニ股でテーブルまで運びながら、トラック運転手風の人を探し、その人が「天ぷらそば」とか「和風定食」なんか食っていようもんなら「ふん、トーシローめ」という視線をぶつけてやってました。

 トラックの上乗り、3回目にはもう一端のトラック野郎になった気でいました。

栗山民也氏の戦略(ついたあだ名が上乗り成金)

 私がトラックの上乗りは、いつも栗山さんが一緒でした。

 初めてトラックの上乗りをした時に、稽古場で上乗りを決めた話し合いで感じた疑問を、聞いてみました。

「クリさん、上乗りのチームを決める時、どうして、手を挙げたり、挙げなかったりしたんですか?」

「うむ?」

「だから、たとえば清水から浜松は全然挙げるそぶりも見せなかったのに、浜松から名古屋はいの一番を上げたじゃないですか」

「清水から浜松と浜松から名古屋では、同じような時間トラックに乗っているけど、清水・浜松間は普通列車で乗車券代だけ、浜松・名古屋間は新幹線だから、乗車券代の他に特急券代と座席指定券代の上乗りが入るだろ」

「あっ!」

「旅手帳のここの移動行程を見てみろよ、全部普通列車だから、あいつらは4時間乗っても1200円で、こっちは2時間半で7000円になるだろ」

「すげぇ!」

「世の中、気がつく奴が美味しい目にあって、そうじゃない奴は、頑張ってもちょっとしか貰えないようになってんだよ」

上乗りは儲かる、ウッシ、シ、シ

 栗山さんが「上乗り成金」と呼ばれていた理由、よーくわかりました。

実際、栗山さん、ギャラの何倍もの金を上乗り代で稼いでいました。

やっぱ、この先輩頭が良い。

「つゆ」が透けて見えるうどん!

 生まれ育ちが東日本の神奈川県で、大人になるまでに、西日本に行ったのが中学の修学旅行で行った京都、奈良だけでした。

 実質、劇団の旅公演が初めての西日本体験です。

 旅館での食事もしっかり食べていたのですが、なんせ22歳の若者です。

 しかも舞台スタッフは肉体労働でもあったので、四六時中、腹が減っていました。

 ですから、隙あらば常に「何か食おう!」と思ってました。

 手っ取り早いのは、駅のホームにある「立ち食いそば・うどん」です。

 忘れもしません、明石から姫路への移動で、少し時間があったので駅のホームにあった「そば・うどん」の店から漂う匂いに誘われて、のれんをくぐりました。

 「かき揚げうどん!‥あっ、卵落として、スタミナに、ウフッフッ」
 一昨日の上乗り代が6000円になったので、贅沢をしました。

 「へい、天ぷらうどん、卵入り!」

 !どんぶりに入ったうどんを見て驚きました。

 あれ? 「つゆ」が‥塩水?

 色が無い‥塩ラーメンの「つゆ」みたいだけど、でも、少しだけ茶色い感じはあるなぁ‥?

 他の人のうどんを見ても、同じ色をしています。

 関東のうどんに慣れた私には「これ、味、めちゃ薄そうだなぁ‥卵、入れたの失敗だった?」

 そう思いながら、まず「つゆ」を啜りました。

 ! あれ、美味え。

 これ以降、西の味が大好きになって、特に九州に入ると、毎日のように「ちゃんぽん」か「皿うどん」を食べていました。

 まだ、東になかった「王将」の洗礼も受けました。

 ただし、すき焼きへ入れる「砂糖」の量は、ついていけませんです。

 大阪で旅館の夕食が「すき焼き」でした。

 旅館のおばちゃんが、かいがいしく下味を作ってくれていたのですが、
「おばちゃん、砂糖、少しね、少し!‥少しで良いからねっ!」

「はい、はい、少しね」

「そう、少しね!」

 言い終わらないうちに、大さじ5杯の砂糖をすき焼き鍋にドバッ! ドバッ!

「ああっ!」

ドバッ! ドバッ!

「こんくらいね、もうしこし入れる?」

「いらない、いらない!😢‥‥ば、ば、婆あ〜」

鹿児島から東京まで36時間ノンストップ

 にわかトラック野郎の私でしたが、それでも米子から東京ノンストップ24時間、鹿児島から東京ノンストップ36時間などの上乗りをやりました。

 鹿児島からは当時まだ、九州自動車道ができていなかったので、九州を抜けるのに12時間かかり、下関から横浜まで24時間ノンストップで走り抜けました。

 もっとも、走り抜けたのは運転手さんでしたが、帰京のトラックは基本上乗りはいらないのですが、運転手さんの眠気防止のためという理由で乗りました。

 鹿児島を出る時には、高層道路の案内図には東京という文字どころか、大阪すら出てきません。

 九州を抜け、下関から広島あたりを目指して進む頃、ようやく大阪の文字が現れます。

 そして鹿児島を出発してから26時間、大阪に入りました。

夜の高速道路は、幻想的で素晴らしかったです。
特に山陽道など真っ暗闇を、うなりを上げたトラックが大船団のように固まって走るのは、高揚します。

 そこまで来ると、京都、名古屋、そして東京の文字が出たます。
もう帰った気になりました。

 大阪なんざ、となり町よ!

 京都が近づいた頃、運転手が船を漕ぎ始めました。

 「ヤバイ、起こさなければ、俺、死んじゃう!」

 「好きなのに🎵 あの人はいない🎶、話し相手は、ないだだけなのお〜🎶」下手な歌をがなりました。

 運転手さん、こちらを見て「黛ジュン、ヘタァ〜」と言って笑いました。

 私の音痴のお陰で、運転手さんは寝ないで、鹿児島、東京36時間一気に爆走しました。

 途中、豚汁定食を食べることは忘れずにです。

 上乗り代は、鹿児島、羽田の飛行機代27,000円になりました。

 時給、750円。

 当時としてはまずまずで、その金でジーンズ、タンクトップ、サングラス、そして当時流行りの革製のショルダーバックを買うつもりでした。

おまけ

36時間のトラック乗車から降りても、トラックの振動が体から抜けずに揺れていました。

揺れ防止が出来ないので、自分から思いっきり揺れてみたら治るかと思って揺れてみました。

時々、豚汁定食に挑戦する70歳です。

コケました。

せっかく無事、鹿児島から帰ってきたのに、降ろしてもらった環状8号線脇の歩道で捻挫しました。

 そこから家までタクシーに乗って、ショルダーバックが買えなくなりました。

🙏

 右の写真は、それから48年後の中島です。

 もうすっかり捻挫は治りましたが、歩く速度は、環8で捻挫した時の歩くスピードより、遅いです。

中島豊

タイトルとURLをコピーしました