10,000枚のチケット、2時間で完売!
199✖️年9月、まだまだ8月の厳しい残暑が続く秋分の昼過ぎ。
浅草橋にある我が劇団こまつ座の事務所では、制作部員たちが4週間後に控えた新作公演初日を前に、一向に上がってこない座付作者「井上ひさし先生」からの原稿(台本)を、生きた心地がしない状態で、ただひたすら待っていた。
この年、劇団の新作公演はこの作品だけだったので、観客の期待は大きく、用意された10,000枚のチケットは完売状態だった。
そう、公演の責任者であるプロデューサーの私は、大胆にも台本が1ページも‥いや、一文字も出来上がっていないのに、チケットを売ってしまったのだった。

チケットさえ売ってしまえば、いくら遅筆の井上ひさし先生とて焦って書き出すであろう‥。
私は浅知恵の浅知恵、底なしに深い浅知恵を発揮して、チケットを売ってしまったのだった。
‥本当に、浅知恵‥だった。
「中島さん、チケットはもう売っちゃいました?」
チケット発売日の夕方、井上先生は心配そうに電話をかけてきた。
「はい! 10,000枚、完売です!」
私は作家に思いっきりプレッシャーをかけようと、
「オラ、後先(あと先)何にも考えてないもん!」
‥ってな感じで、めいっぱい「ヘラヘラ」した声を出してみました。
「ええっ!」
井上先生、予想以上に大きな声でした。
「役者もスタッフも、大いに張り切っています!10,000枚です、先生、10,000枚!」
私、こぞとばかり猛プッシュ・プッシュの「能天気波状攻撃」をかけました。
当然、井上先生は「これはやばい、本当にやばい、こいつら切符売っちまった、嘘じゃない、急いで書き始めなければ‥‥よーし!こうなったら、頑張って、頑張って、1日最低10枚は書く! 命懸けで、絶対、絶対、書く!」
となり、今日以降、原稿がバンバン上がって来て‥公演初日も無事開幕ってなことになって
「先生、ありがとうございました、いい初日でした!」という流れで‥

井上「うーむ‥そうですか、分かりました! そういうことであれば、僕は絶対に良いものを書かなければダメですね、切符買ってくださった、10,000人のお客様が、すごく面白がって、そして感動してくださる、そんな大傑作を書かねばなりません」
中島「先生、よろしくお願いいたします!」
井上「‥分かりました、今の報告でとても勇気が出ました、僕はまだまだ命懸けで粘ります!稽古場で待っているスタッフや俳優さんたちにはご迷惑をお掛け致しますが、傑作を書くためには、焦って原稿を書いては絶対にダメです。じっくりやります。中島さん期待しててください、絶対に大傑作を書きますから!!」
そう言って、思い切り電話が切れました。
「あかん、‥逆効果やぁ」
スピーカーフォンにしてあった音声を一緒に聞いていた、公演プロデューサーの瀬川さんが呆けた顔でため息をつきました。
公演担当プロデューサー
瀬川(芳一)さんとは実名で、当時こまつ座で主に公演現場を担当していました。
公演現場の担当、つまり公演プロデューサーというのは、稽古開始から初日から東京公演の千秋楽、さらに数ヶ月に及ぶ全国ツアーの終了まで、ずーっと現場について様々な仕事をする、現場付きのプロデューサーです。
彼は、愛知県有数の中高一貫の名門(東海中学・高等学校)を卒業後、大学の商学部に進んだものの、ここは自分が来る所ではなかったと、わずか3日で退学、新設の横浜放送映画専門学院に演劇科の1期生として入学し、そこで私と知り合いました。

卒業後、文学座の俳優養成所へ入所、終了後は文学座には残れず‥ちなみに当時文学座は研究生から次の研修科に進むには、審査があり60名ほどの研究生から残れるのは2〜3人程度の狭き門でした。
卒業後はアルバイトをしながら、「クラシックバレエ」や「ジャズダンス」などのレッスンに通い、時々そっち方面で仕事を得ていました。
俳優志望者のあるあるです。
私がこまつ座に入団した1年後の1985年夏
「中島くん、誰か知り合いで演劇制作をやりたいという人いないかな?」そう当時の社長、井上好子(現・西館好子)さんから相談を受けました。
こまつ座は旗揚げ公演の「頭痛肩こり樋口一葉」が大好評のうちに終わり、続く2作目の「日本人のへそ」も、人気俳優「平田満」「石田えり」の出演もあり、連日満員御礼で全国公演を終了していました。
新設劇団がいよいよ本格始動という時期だったので、制作部の増員が急務でした。
当時、私は第3回公演「頭痛肩こり樋口一葉」の旅公演先の盛岡に居ましたが、学生時代から顔の広さに定評があった瀬川さん(以下、敬称略)に電話をかけたのです。
「瀬川、知り合いで、誰か制作をやりたいという人いないかな?」
「こまつ座の?」
「そう、探しているんだよ‥誰かいないかな?」
「それ、俺に言ってんのか?」
「違うよ、お前、顔が広いからさ、誰か知らないかと思って」
「‥うーむ、どうしようなかぁ」
「どうしようかなって、瀬川、役者になりたいんだろ?」
「うーんちょっと考える、じゃあ」
そう言って電話は切れた。
‥大丈夫かな
翌日、新しい公演地での舞台装置の搬入が終わった頃、こまつ座に業務連絡の電話をすると‥

「中島くんのお友達来てるわよ!」
電話に出た井上好子さんが甲高い声でそう言った。
「友達?」
「瀬川さんって、今、奥でテレビの場所移動してるわよ」
「えっ、居るんですか?」
「おう!中島? 来たよ」
瀬川が電話口に出た。
彼はそうやって劇団こまつ座に入り、以来、約40年演劇制作者の道を歩みました。
さすが、名門の私立一貫校に合格しただけあって、一回でも仕事で出会った人は、絶対に忘れないだけでなく、出身地や誕生日、俳優やスタッフなどはその経歴まで暗記していました。
そういう事が全くダメな私は、何かというと「あの人誰?」とか「どんな経歴だっけ?」とか字引き代わりにしてました。
万策尽き果てた時
さて「中島さん、死んだ気になって頑張ります」そう言った井上先生だったが、筆は一向に進まず、とうとう台本がないまま稽古開始日になってしまいました。
稽古は13時から始まるが、台本が無いので、出演者とスタッフの顔合わせだけで、どんなんに時間がかかっても13時30分には終わってしまいます。
明日からは、台本の1場(全8場の予定)が書き終わった段階で、稽古を再開しようという事になり、それまで稽古は休みになりました。

稽古開始の日、私はいつ鎌倉(井上ひさし先生)から連絡が入ってもいいように、劇団の事務所で待機をしていました。
稽古が始まると、さすがに井上先生も気になるのか、不意に電話が来て稽古場の様子を聞いてくるのでした。
時刻は14時30分過ぎ、井上先生からの電話はまだありませんでした。
そろそろ稽古場から瀬川が戻ってくる頃なので、その辺りに作家からの電話があるかもしれません。
瀬川は、稽古場の出演者やマネージャー達から
「いつになったら台本が来るんですか?」
「初日、間に合わなかったらどうするつもりですか!」
「作家は今何してるんですか!」
そんな詰問を受けて、憔悴して帰ってくるだろう。
「ギャー! なかじまさ〜ん!!!」
突然、こまつ座内に井上事務所という、井上ひさしの様々な仕事やスケジュールを管理する会社があるが、そこの女性スタッフが大声を上げた。
「先生!先生が!」
「先生がどうした?」
「ノーベル文学賞だって!」
「えーっ!」
井上ひさし ノーベル文学賞候補に!
「今、日本ノーベル賞委員会というところから連絡があって‥先生がノーベル賞候補になっていて、もし、選ばれたら、賞を受け取りますか?って言ってました」
「で、勿論って言ったの?」
「ありがとうございますって言っちゃった、先生に聞いてないのに」
「貰うに決まってるだろ! たとえ先生がいらないって言っても、俺たち絶対もらおうな!」
エイ! エイ! オーッ!!
事務所内では「勝鬨(かちどき)」が上がった。
その時、稽古場から暗い顔をした瀬川が戻ってきた。

バンザイ! バンザイ! ノーベル万歳! ダイナマイト万歳!!!
「なんだよ、どうしたんだよ?」
「先生がノーベル賞候補になったんだよ!」
「ノーベル賞?」
「おお、今、日本ノーベル賞協会とかなんとかいう所から連絡があって、もし、ノーベル賞に選ばれたら、お受けになりますか?ってさ!」
「えぇぇぇ! おい、もし、もしそうなったら、公演はどうなる?」
「‥‥それどころじゃ‥なくなるわなぁ‥」
「ってことは、‥台本はもう要らないってことか? 」
「だな!」
「ヤッタァ!‥でも、もうチケット売っちまったぞ‥」
「紀伊國屋ホール公演20回分の、お祝いの会をやろうか? 舞台にノーベル賞飾って、先生にご挨拶してもらって、生バンドで今までの作品の音楽を演奏してもらったり、出演者に来てもらって、お客と一緒にロビーでパーティーを20回分やるってのはどうだ?」
「おおっ! それが良いな、芝居の入場料返さなくても良いんだよな?」
「いや、全額返金だよ」
「だって、パーティー代とか、生バンドとか‥紀伊國屋の会場費とかかかるぞ」
「そこはさ、こまつ座すげぇ!ってとこ見せてさ、チケット買ってない人たちが『ああ、俺もチケット買っておけばよかった、公演中止になるかもしれないけど、次からこまつ座のチケットは絶対買おう!』そう思わせるようにさ、よその劇団が出来ないことやってさ、だけどちょっとだけセコク、ロビーに何箇所かご祝儀箱とか置いておいて、少し回収できるようにしてさ‥」
「おおっ!」
「だってさ、ノーベル賞って金くれるんだろ? 確か数千万円‥それ、先生から借りてさ、だって本が売れればメチャメチャ金入るし、こまつ座も『ノーベル賞受賞記念公演』とか言って、たとえば連続公演とか言って、一気に10作品くらい3年くらいやってさ、儲かるぞ!」

「いい!」
ことの顛末
すっかり浮き足だった私達は、執筆中の作家とこれからの予定を相談するため、まるで月面を歩いているような浮遊感あふれる足取りで、作家の自宅がある鎌倉に向かった。
こまつ座の事務所からは15分程度歩いたところにある「JR馬喰横山」という、総武快速の駅から横須賀線に乗った。
中島「今日はもう原稿を待つために、劇団に戻らなくてもいいから、いっそ、横浜あたりで、お祝いの夜明かしでもするか!」
瀬川「おお、3日位夜明かししても良いよな‥、金持ってる? 今晩過ごすだけあれば、明日の朝、銀行でおろせるし‥」
稽古場の事も、公演の事もすっかり忘れて、二人で「ノーベル、ノーベル、ノーヘル!」
「ノーヘルは危ないよぉ!」
訳のわからないことを言いながら、酒も飲まないのに、気色悪いマックス笑顔で、横浜から乗ってきた女子高生たちにキモがられながら、横須賀線に揺られていました。

「鎌倉駅」に着いた私達は、到着の連絡を浮かれながら事務所に入れました。
「中島さん! 大変! ノーベル賞、違ってた!」
「違ってた?」
「あれ、先生じゃないんだって!」
「?えーっ、じゃあ誰だよ」
「井上靖さんだったんだって‥」
ガ〜ン!
「井上靖って‥『天平の甍』とかの?(読んだことないけど)」
「よく知らないけど、先生が言ってた『ああ、僕じゃありません』って」
「えっ? だってノーベル賞委員会から連絡があったんだろ?」
「急いで連絡したら、すみません『いのうえやすし』さんでした‥だって」
「なんだよ、それ!‥瀬川‥ノーベル文学賞、違うんだって‥」
「平和賞?」
「違うよ、全部なし、平和も文学も、科学も、医学も‥物理‥何でも」
「何でもって?」
「とにかく先生のノーベル賞候補って、井上靖と間違ったんだって‥」
「えーっ!そんな、間違えなんてあるのかよ?」
「‥あったんだ‥」
がーん!

まるで底が抜けた奈落に堕ちて行くように、二人は公衆電話の前に倒れ込んでしまった。
すぐに電話に並ぶ人が来たので、気を取り直して立ち上がりはしたが、我々はどうしていいのか、思考が完全に止まってしまった。
中島「なあ、ここまで来て、ただ帰るわけにもいかないよな」
瀬川「でも、俺、ダメ」
彼は再び駅前のアスファルトに体を預けてしまった。
中島「でもさ、先生には俺たちが鎌倉向かってるの知っているんだよ」
瀬川「じゃあ、フルーツでも持って、陣中見舞いに行くか‥本当は何もしないで帰りたい‥」
中島「間違ったお詫びに、ノーベル賞委員会、賞くれないかな」

そんなことを言いながら、我々は鎌倉駅前からタクシーに乗った。
しゃべると泣いてしまいそうになる、沈黙の車内だった。
10分ほどで井上ひさし先生が籠る、鎌倉の自宅に到着した。
差し入れのフルーツは、カゴにするとなんだか病人の見舞いのようだという瀬川の意見で、洋梨を10個ばかり袋に入れて持って来た。
我々が来る時間が、劇団から連絡が入っていたので井上先生は、門のある入り口から見える、縁側の籐椅子に腰掛けてタバコを燻らせていた。
門扉から庭に入る我々を見つけると、待ち侘びた友達が遊びに来た小学生の様に、ニコニコしながら何度も手を振った。
「執筆中にすみません、すぐ帰りますから‥ちょっと、陣中見舞いに‥」
「いいの、いいの、さっ、来て、来て!」
そう言うと吸っていたタバコを急いで灰皿で揉み消し、手招きをしながら、「玄関、開いてるから、入って」と縁側の奥にある応接に引っ込んだ。
「すみません、ちょっとだけ‥梨、持って来たんで‥」
「入って、入ってノーベル賞でしょ?」
「え、まあ‥ノーベル‥」
「あれはですね、そもそも英訳されてなければなりません、さらにスウェーデン語になってれば、まあ可能性はありますけど‥僕の作品は難しいですよ、なかなかダジャレやユーモア、言葉の韻など簡単には分かりませんから‥残念でしたね、まあ、気を落とさずに」
井上先生、そう言うと声をあげて笑った。
その後、しばらくは、新作の内容や出演者のことなどを話していたのだが、それから瀬川と私はどうやって鎌倉駅まで帰って来たのか、全く記憶がなかった。

気がつくと、鎌倉駅前に在る小さな公園のブランコに座っていた。
瀬川「‥初日、開くかな‥」
中島 「切符、売っちゃった‥」
瀬川「1ヶ月後の初日の日‥何してるかな‥」
中島「なあ、これって、『生きる』って映画の志村喬だよな‥黒澤明の‥」
瀬川「あのブランコのシーン、あのまま、死ぬんだったっけ‥‥なあ、初日に済みません謝るのと、今、死ぬのどっちがいい?」
中島「プロデューサーの仕事ってさ、作品が良ければ俳優や作家、演出家が褒められて、悪ければプロデューサーが叱られるって‥仕事だから‥今、死んでも‥あの世で謝ってんじゃねえのかな‥」
瀬川「そっか、同じ謝ってるなら、まだ、生きてた方がいいか」
中島「死ぬよりマシだろ、謝ってりゃ済むんだから‥」
プロデューサーの屈折した歓び
世間一般にプロデューサーというと、何となくカッコよく、派手な芸能界で生きているように思われているようです‥。
実際、私にさえ、いろんな人が
「女優さんと仲良くなったり、いいことしたりしてるんでしょ?」
とか
「プロデューサーともなると、誘惑が多いいでしょ?」
などと聞いてきます。

実は、私もプロデューサーになる時に
「気をつけろよ、仕事が欲しい女優からの誘惑だらけだぞ」
そう言われて、口では「そんなことしませんよ!」と言いながら、めっちゃ期待してました。
しかし、まったく、まったく、全然そんな事はありませんでした。
少なくとも演劇プロデューサーは、実に地味で質素な生活をしています。
才能ある俳優や劇作家、スタッフが大勢いるような、ブロードウェイなんかのプロデューサーはわかりませんが、劇作家や俳優、演出家の数が圧倒的に少ない日本では、演劇プロデューサーは俳優や演出家、デザイナー達にペコペコして‥一生懸命ポスターを作ったり、チケットを売ったり、少ない予算に頭を痛めたり、時には、初日が遅れてお客様にペコペコ頭を下げて‥そうして舞台が大成功して評判になれば、それは作家や演出家、そして出演者がその賞賛を受けます。

プロデューサーは賞賛されることはごく稀です。
じゃあプロデューサーとしての、歓びを感じる瞬間はいつ?
それは、舞台を観たお客様たちが喜んでいる姿を見て‥ではありません。
お客様の喜んでいる姿を見た、あるいは拍手や「ブラボー」のかけ声をもらった「出演者」や「劇作家」「演出家」「スタッフ」たちが喜んでいる姿を見て、心の底から嬉しくなるのがプロデューサーなのです。
何ともひねくれた屈折した精神構造かもしれませんが、少なくとも私は、カーテンコールで万雷の拍手を受けながら、全身で喜んでいる俳優の姿を見るのが大好きでした。
結局、この公演は初日が数日遅れて開幕しました。
私たちは、初日があくまでの数日、紀伊國屋ホールの入り口で頭を下げておりました。
日本人では三島由紀夫、大江健三郎、井上靖、
