天才、井上ひさしとの仕事 その1(アイディアからプロットまで)

人気小説家であり、劇作家として数多くの傑作を残した井上ひさし氏との仕事は、面白くも、壮絶な日々の連続でした。

プロデューサーと劇作家、劇団員と劇団座付作者、演劇界の大先輩と若輩者。
様々な氏との関係から、11年間の劇団こまつ座での生活を振り返り、井上ひさし氏との思い出を語りたいと思います。

「先生」という尊称

劇団内では、井上ひさし氏のことを「先生」という尊称で呼んでおりました。

こまつ座は当初、最初の奥さんであった、井上好子さん(後に離婚して現在・西館好子)が劇団の代表であり、後年、劇団代表になった長女の井上都さんも事務所に来ていので「井上さん」だらけでした。

ですから「先生」という尊称が何かと便利だったこともあり、劇団内では「先生」という尊称が定着していました。

また、井上ひさし氏に対し、直接「先生」と呼びかけることができるのは、こまつ座の劇団員だけだったので、若干の特権意識もあったかと思います。

これから、井上ひさし氏の事をいろいろと書くのに「先生」または「作家」という呼称を使うのが、一番しっくりくるので、以後、「先生」とか「作家」と表記することを、お許しください。

井上ひさし、創作のスタートは雑談の中から

先生は、世間的には遅筆(書くのが遅い)で有名でした。

確かに、1日原稿用紙何枚も書く作家に比べれば、最速でも400字詰め原稿用紙、時速1枚‥場合によっては3時間に1枚という速度で書き上げる作家井上ひさしの筆は遅かったです。

しかし、原稿用紙1枚1枚に込められた台詞は、俳優が声を発した時の音が、観客にどう聞こえるかのまで計算した精度の高いものでした。
さらには、2重、3重の意味まで持つセリフなど、申し訳ありませんが、並の作家にはお呼びもつかない、芸術品でした。

そんな戯曲の誕生は、プロデューサーと作家との間で何度も行われた、公演のはるか以前から始まる雑談からでした。

 鎌倉に住む作家が劇団事務所に現れるのは、編集者との打ち合わせや、文学賞の選考委員会などの用事で都内に出てきた時や劇団の重要会議の時でした。

劇団の近くを流れる、隅田川

浅草橋にある、劇団事務所のドアを開けながら、少し甲高い声で
「どうも!」と入って来ました。

作家専用のスリッパに履き替え、事務所内に入って来ると、メンバーひとり、ひとりに、

「鎌ちゃん!元気ですか? 紀伊國屋公演売れてますねぇ、すごい凄い!」
「中島さん、市原悦子さん押さえられてよかったですねぇ」
「瀬川さん、地方公演売れてます? そうですか! よかったぁ」
「渡辺さん、この集英社へのお使いありがとうございました、高橋さんなんか言ってました?」

などと矢継ぎ早に声をかけ相手の返事を確認すると、事務所奥の和室へ向かいました。

事務所は住居用マンションの一室を改装したもので、事務所エリアの他に、給湯室やバスルーム、倉庫、パソコンやFAX、コピー機などの機器コーナー、部屋の一番奥に会議室を兼ねた8畳ほどの和室がありました。

和室内には3、3、1、1の形で人が座れる、8人がけの大きな長テーブル、テレビ、ビデオデッキ、壁一面を覆う本棚には、井上ひさしの著作本や、それまで上演してきた作品の台本や公演パンフレットが収納されていました。

この和室は、稽古が始まっても、先生からの原稿が完成しない時には、制作部の原稿待機場所となり、そのための担当者が宿泊する部屋にもなっていました。

稽古が佳境に入り、公演初日が近づくと、まるで不夜城のような状態になっていました。

和室に入った先生は、一般にお誕生席と呼ばれる、机の端に座り、プロデューサーと劇団の制作スタッフたちが、それぞれノートを手に集まってきました。

先生のために用意されたコーヒーを、一口飲み、お気に入りの「セブンスター」に火が付をつけたのをキッカケに、話がスタートしました。

切符販売の状況や、進行中のキャスティングの話、あるいは演劇界全体の話や、プロデューサー達が見に行った最近の舞台の感想などが話され、時には高校野球の話や日本シリーズ、あるいは大相撲などの話も出たりする、実に楽しい時間でした。

やがて作家が3本ほどタバコを吸い終ると、持って来た革製の大きなカバンの中から、A4サイズほどの、黒表紙ノートを取り出しました。

ノートには作家がこれから書こうとしている作品のタイトルや、付随するメモが、丁寧な字で、100作品分ほど書き込まれています。

井上ひさし創作の秘密

※以下、冒頭の「ひ」は井上ひさし「プ」がプロデューサーといたします。

「次の新作は『浅草芸人長屋』という芝居かなんかどうかと‥」

作家はノートを見ながら、半分くらいになったタバコを咥えたままそう言いって、皆を見回しました。

我々は皆「なんだろう?」という顔で、首を前に突き出しました。

『浅草芸人長屋』という話はですね、むかし浅草のフランス座のコメディアン達が、みんなでひとつの長屋に住んでいたんです。その長屋にはフランス座のストリッパー達も一緒にもいてね、たいてい芸人とは夫婦だったんですよ」

「うわぁ、凄く面白いですね!」

「そう、彼らの日常はすごく面白いんですよ、みんな貧しいけど夢があってね」

戦後の浅草六区界隈
ストリップ劇場フランス座の垂れ幕が見える

「渥美清さんとか、由利徹、コント55号なんかがいてね、僕はすれ違ってるけど、ビートたけしがエレベーターボーイやってました」

「先生、それはとてつもない芝居になりますね、想像しただけで、もう、見たいです」

「この作品は、古き良き浅草で、ひたむきに芸に行きた、芸人たちへのオマージュですね」

「先生、演出家は‥たとえば小沢昭一さんとかは‥いかがでしょうか?」

「ああ、やっていただけるならいいですねぇ、お願いできますか? それでちょっと出てもらったりね」

そんな話で盛り上がったり、また別の時には、こちらから企画相談を、させていただいたりもしました。

「先生『化粧』(井上ひさしの傑作1人芝居・渡辺美佐子主演)の男版を、すまさんで考えられませんでしょうか?」

「‥すまけいさんの『ひとり芝居』ですか‥」

「実は、先生の作品を、井上ひさし作品を是非という要望が、全国から沢山いただくのですが、舞台装置が大掛かりな作品だったり、日程がうまく合わなかったりと、いくつも見送られてしまうんです」

「そうですか、惜しいですね」

「その辺りを、絨毯爆撃のように潰していくのが、地人会の『化粧』なんです」

『化粧』は、英国公演までやってますね」

「こまつ座にも、是非一人芝居を書いていただければ‥」

「分かりました、考えましょう、僕もね、すまさんにやってもらいたい役が、いっぱいあるんです」

「幸い、すまさんはウチの所属俳優ですから、スケジュールはある程度こちらで切れますし、コンパクトなひとり芝居なら、どこへでも直ぐ行けます。劇場も大ホールでなくても、極端なこと言えば、客席数100くらいの劇場でもできますし」

「今考えている、すまさんの役のひとつはね、泥棒です」

「泥棒?」

「広島に原爆が落ちた時、火事場泥棒達が広島市内に入ったらしいんですよ、もう、その日の夕方には居たらしいんですけど、その泥棒の話になんかどうかと‥広島のことは、昔から調べているので、今すぐにでもかけます」

「その泥棒が、じつは2次被爆してしまうんです」

「凄い話ですねぇ‥」

幸せなことに、こんなやりとりが、プロデューサーと作家との間で、日常的に行われていました。

※ちなみに、この時、話になった「すまけいひとり芝居」は、数年後に井上ひさしの傑作「父と暮らせば」という作品になって発表されました。

作家と話す場所は、劇団事務所だったり、作家の自宅だったり、時にはこまつ座公演終演後の紀伊國屋周辺の居酒屋だったりもしました。

雑談が企画になる時

そんな雑談を続けながら、こまつ座の演目を決定する話し合いが、年に2、3回、作家との間で行われていました。

「先生、再来年の4月の東京公演はリクエストの多いい『頭痛肩こり樋口一葉』で行きたいのですが、旅公演もおよそ70ステージは確保できます、さらに来年になれば公文協の方の動きも出ますので、75ステージ届くかと思います、東京公演を入れて、ちょうど100ステージを目標に‥」

「前回の公演から‥」

「3年経ちます、タイミング的にもベストかと」

「木村光一先生(演出家)はどうですか?」

「スケジュールは大丈夫です」

「わかりました、ではここは『頭痛肩こり樋口一葉』ということで」
 作家は、スケジュール帳に丁寧な字で書き込みました。

「再来年の秋ですが‥ここは、新作をやりたいですね」

「是非お願いします。再来年9月の東京公演は、新作書き下ろしということで」

「それで、内容ですが‥」

ここで、それまで何度も作家とプロデューサーとの話し合いで俎上に上がった、様々な作品をもとに、話を深めていくことになります。

「この辺りのすまけいさんのスケジュールはどうなっていますか?」

「この時期はまだ空いてます」

「そうですか‥じゃあ『長屋の仇討ち』という話が考えられますねぇ」

長屋の仇討ち」は何度か行われた作家との話し合いの中で出てきた、候補作品の一つでした。

物語は、東北のある藩に、藩の要職に就く優秀な侍がいた。
ところが些細な誤解から、竹馬の友である侍を切ろうとし、逆に斬られてしまった。
友を切った侍は、逃亡に逃亡を重ね、遂に江戸に辿り着き、小さな長屋に逃げ込んだ。

そこへ仇討ちを志した斬られた侍の妻が、3年の月日をかけ、ようやく仇を探しだした。
そして、策を弄し同じ長屋に住む事にした‥幸い、妻の顔は仇の侍には知られていない‥。

息を潜めるように暮らす、逃げている侍の長屋は、ある時を境に、ひとり、ふたりと住人が入れ替わっていく。

構想ではこの逃げていく侍にすまけいを考えていた。

すまけい 劇団こまつ座の主力俳優として、
井上作品には欠かせない俳優であった。

注)すまけい=日本の俳優で、こまつ座初期の上演作品「日本人のへそ」「きらめく星座」「国語元年」などに出演のほか、松竹映画「キネマの天地」「男はつらいよ」や多くのテレビ・映画・舞台にて活動する、当時、こまつ座所属俳優であった。

※この「長屋の仇討」は上ひさしが、自身の傑作戯曲「雨」の逆パターンを考えたものであった。
 「雨」の場合は、主人公が大問屋の主人になりすますこう構造だが「長屋の仇討」は、主人公を取り巻く人物が、徐々に変わっていくというドラマだった。

※後にこの作品は、大きく構想が変わり、そのDNAが「イヌの仇討」と「箱根強羅ホテル」という二つの作品となって発表された。

公演に向けて プロット執筆(側で天才を感じる瞬間)

企画会議で新作の演目が決定されると、2年後の公演初日から数えて、4ヶ月前に作家は執筆作業に入ります。

例えば、現在が西暦2000年の4月だとしますと、企画した新作公演は2002年の4月になります。
作家は2002年の1月から執筆活動に入り、2月末日に完成、3月に稽古が行われ、4月に公演初日を迎えるというスケジュールを立てます

が、実際にどのような作業になるのか、実際の「人間合格」は1989年12月に初演されましたが、仮に2002年1月に太宰治を主人公にした評伝劇「人間合格」の執筆を始めたと仮定してお話をいたします。

執筆の6ヶ月ほど前から作家の蔵書の中の「太宰治」に関する書籍や資料が一つの本棚に集められます。

蔵書は自宅の他、山形県東置賜郡にある、フレンドリープラザ遅筆堂文庫に収められている、約10万冊の蔵書もあります。

自宅、遅筆堂文庫の両方から関係書籍、資料が作家の書斎の本棚に入ります。

さらに、神田の某古書店と契約し、神田の古書店街にある太宰治に関する書籍、資料の全てが、その書店に集められます。

蔵書との重複をチェックした後、「太宰治」に関するすべての書籍と資料が、作家の自宅に送られてきます。

一つの作品を執筆するのに、平均300点の書籍、資料が執筆部屋の本棚に収まります。

それを一通り読み終わると、次に詳細なプロットという箱書きを作ります。

ちなみに、300点の書籍、資料を読み込むのには約1ヶ月ほどかかりますが、本の厚さにもよりますが、1日平均10冊の書籍や資料を読み込んでいることになります。

作家は決して速読法を駆使しているわけではなく、実に丁寧に読み込んでいました。

それでも、一度だけ尋ねたことがありました。
「先生は何か速読法など、おやりですか?」

答えは、No,でした。
「速読は、資料や小説をじっくり読み込むには適していません。読んで、読んで、読んで、自分の頭を読書脳に鍛え上げるんです」

読書に関しては、アスリート並みの読書脳でした。

そのほかにもプロットに入る前は、いくつか手続きがありましま。

一つは、ボール紙で作った、三片の三角形‥真ん中が空洞の三角形を作り、その2片に芝居に出る俳優の顔写真を貼り付けます。

お手製の三角人形の下部に、その俳優が演じる役名が入ります。
例えば「人間合格」に出演の風間杜夫さんの写真の下には「津島修治」と入っていました。

それを机の前に並べ、時には原稿用紙の上に置いて、それらに芝居をさせながら、芝居の構造やセリフを考えていました。

さらに作家は、評伝劇(樋口一葉、乃木希典、石川啄木、小林一茶、松尾芭蕉、魯迅、太宰治など)を書く場合、それらの人物が過ごした村や、町の詳細な地図を作っていました。

それと同時に長い巻物状の年表が作られ、登場人物が生まれてから死ぬまでの記載、生きた時代の国内や世界の動きや事件、経済状況、文学界の動きなどが詳細に書き込まれていました。

「中島さん! この通りの内山書店から少し行ったここ、ここに映画館があったのが、上海の当時の資料からわかりました」
「ああ、ここですか?」私は作家が作った地図を見ながら、その辺りを指しました。
「実はですね、魯迅がここに住んでいたこの年の秋に『キングコング』が封切られているんです‥ということは、映画好きの魯迅は、必ずこの映画館で『キングコング』を見ているはずです、その影響が出ている作品が必ずあるはずなんです」

作家の読み込む書籍や資料の数、作成する地図と年表、これらをまとめたメモとノートなどで、執筆直前の作家は、どの研究者よりもその題材の人物に対して詳しかったと思っています。

山形県東置賜郡川西町にあるフレンドリープラザ内
遅筆堂文庫に再現された、井上ひさしの書斎

関連書籍や資料の読み込みから、それをまとめた年表、地図、登場人物の三角人形、そして大きくまとめたノートやカード
それらをベースに作家はプロットなる、詳細な芝居の設計図を書いていました。

このプロットはコクヨの罫紙を使った時と、左下に「遅筆堂用箋」と印字された、作家特製の400字詰め原稿用紙、あるいはコクヨ製の罫紙を使っていましたが、マスや線を無視して、細かな字でびっしりと書かれていました。

もし、400字詰め原稿用紙に換算したら、おそらくおそらく7、8枚くらいの文字数が、1枚の中にあったはずです。

プロットの内容は、冒頭の場面の詳細なト書きや人物の動き、舞台の見取り図、音楽、その場で示されるべき芝居のテーマ、さらには一部セリフまで書き込まれた内容でした。

一幕一場から始まるプロットは最終景に至るまで、丁寧、丁寧に手書きで描かれていました。

たった2ヶ月程度の時間で、300冊以上の書籍と資料を読み、詳細な年表を作り(部分的には日にちまで書き込まれていました)詳細な地図を完成させ、人物のキャラクターを詳細に設計し、舞台装置のヒントになるような舞台設定を完成させ、最終的には400字詰め原稿用紙1枚にびっしりと2500文字くらい描かれたプロットを10枚仕上げてくる。

井上ひさしの行うこの行為が「天才」と呼ぶに相応しいと思いました。
側から見れば、超スーパー、ウルトラ努力の作家ですが、本人はそれを努力と思っていず、ひたすらやっていました。

井上ひさしのこの姿を真近くで見て、私は違う方法で人生を生きる事にしました。
なるべく、努力しない、でも人から努力していると思われる、そんなおいしい道を探そうと‥。

詳細にあプロットに関しては、作家の仕事を克明に描いた「初日への手紙」(白水社)に事細かに記載されています。

これは、私の盟友の古川恒一元新国立劇場プロデューサーが、井上ひさしとの間で交わした書簡が元になっています。

プロット完成後に待ち受ける地獄の日々

さて、このプロットが完成するのが、実は公演初日前30日前後です。

公演初日30日前ということは、稽古開始の日です。

つまり、台本はこれから描き始める事になります。

稽古初日

稽古場には演出家をはじめとする、音楽、美術、照明、衣装、床山、音響、舞台監督、演出助手、そして演出部スタッフ、出演者、出演者の事務所から担当マネージャーと社長、紀伊國屋ホール支配人‥
50人以上が顔をそろえます。

俳優やスタッフの机の上には、当然あるはずの台本がありません。

稽古初日は恒例の、スタッフ・キャストの紹介があり、その後、作家、演出家と作品の意図と演出方針を話してもらい、それが終了すると、いよいよ本読み稽古に入ります。

ですが、新作公演の場合、本が間に合わない事があります。
少なくとも、私が在籍していた時には、間に合ったことはありませんでした。

台本が無い公演の稽古をどうやって進めていったのか?

続きは、天才、井上ひさしとの仕事 その2にて発表させていただきます。

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