1997年10月、新国立劇場開場、それが恐怖の幕開けだった
1997年10月、文化庁に「第二国立劇場設立準備協議会」が設置されてから、25年の歳月を要し、
渋谷区初台に新国立劇場が開場しました。
京王新線新宿駅からひとつ目、初台駅の真上に立つ、新国立劇場は、敷地面積:28,688㎡、建築面積:19,489㎡ 延床面積:69,474㎡で地下4階 地上5階 高さ:最高高さ40.9m 最高深さ30.7mの威容を誇る、開場当時は世界一の設備と機構を誇る劇場でした。
隣に立つ東京オペラシティービル内にある、コンサートホールと共に、日本初の現代舞台芸術の為の国立劇場の開場は、我が国の舞台芸術の大いなる発展を約束する象徴でもありました。
実はこの劇場、ほとんど「タダで作られた」という話です。
新国立劇場そのものは、さほど高い建物でなくて良いので、なんでも空中権とかいうものを、隣の超高層オペラシティービルを建てるのに必要だったので、その「空中権」なるものを売ったお金で、劇場を作ったとのことです。
さすがは日本のお役人、頭が良いですよね。
勿論、いろいろ苦労はあったでしょうが
「すごい!」
私なんぞ「空中権」なんてもんが有るのも知らなかったです。
開場記念公演の演目は、オペラ『建・TAKERU』、バレエ『眠れる森の美女』、ダンス『パノラマ展A』
演劇は井上ひさしの新作『紙屋町さくらホテル』そして、つかこうへい『銀ちゃんが逝く』の5作品でした。
私、そこに開場の1年前から勤務しておりまして、まさに開場の瞬間を目撃していました。
しかし、華々しく柿落としを迎えた劇場に「あのような恐ろしい事が起きるとは‥」
今だから語れる、開場記念公演で起きた、恐ろしい事件の一部始終を、お話しいたします。
新国立劇場、なんにも見えない‥冷たい‥恥ずい‥
新国立劇場に足を踏み入れた方ならばお分かりでしょうが、劇場正面の横と地下の小劇場の入り口に人工の池があります。

池と言っても、水深はせいぜい20㎝ほどのものですが、水というものがあると、人間に癒しの効果があります。
劇場に入る前に、この水を眺め、少しでも癒されながらのご来場を願っていました。
そしてそれ以上にこの池の水は、地下を走る「京王新線」の振動を、舞台や客席に干渉させないよう設置された言わば「防音装置」の役目も果たしています。
さらに劇場の正面には首都高6号線があり、その下は国道20号線の甲州街道もあります。
両方とも昼夜問わず車の往来があります。

これらからの防音対策として、劇場の前には巨大は壁が設置されています。
事件は、そんな新劇場の「柿落とし公演」が始まるという、おめでたい最中に起こりました。
その日、約320名収容の小劇場はつかこうへい作・演出の『銀ちゃんが逝く』の初日、
新国立劇場小劇場の歴史が始まる日でした。
開演30分前に、小劇場の入り口ドアが開かれました。
そこには新しい劇場の誕生を待ち侘びた人、つかこうへいファンの人、招待券で来た文部科学省の人、少し斜めに構えて入ってくる評論家や新聞記者、永田町にある国立劇場関係者、などなど大勢の人たちが、一斉に劇場に入って来ました。
出迎える我々職員も、来場する人たちも皆笑顔です。
あちらこちらで「おめでとうございます!」「いらっしゃいませ!」
「楽しみにしてましたよ!」
「ありがとうございます!」
お祭りの始まりでした。
と、その時、小劇場の入り口にいた我々の耳に、初台駅方面から「あーっ!」という悲鳴と共に、
「バシャーン」
何にも見えない‥冷たい‥恥ずい‥
声がしする初台駅の方を見ると、暗くなり始めた劇場前にある池の中に、呆然と立ち尽くす女の人が‥

すぐに劇場の入り口に立っていた営業部の若手が、走っていきました。
その人は「自分は一体どうなってるの?」
不安そうな目で、駆けつけた営業部員を見つめています。
池の深さはせいぜい20㎝ほどです。
何かの拍子に、劇場前の池に足を踏み入れてしまったのでしょが、自分での状況が分からず、なすすべなく、池の真ん中に立ち尽くしているのです。
その姿を見て、そこにいた劇場の職員たちは不思議に思いました。
その女性が立っているのが、池の淵から1mほど池の中央に入ったところだったのです。
「?』
「あの人、なんであんなに池の淵から離れた所に立っているんだ?」
「不思議ですね、一歩、池に足を踏み入れれば、そこで止まりそうなもんですよね?」
池の中から助け出される女性は、恥ずかしそうに何度も頭を下げています。
「慌てていたら、つい3歩くらい水の中を歩いちゃいました‥」
とりあえず、劇場ロビーに併設されている救護室で、靴とソックスを脱いで、スリッパに履き替えてもらいました。
女性は、恥ずかしそうにしながら客席に入っていきました。
そのお客様を見送っていると、再び表から大きな声が聞こえて来ました。
「大丈夫ですか!」
職員たちの大きな声も聞こえます。
ロビーの外に出てみると、今度も池に入ってしまったお客様ですが‥
「えっ!」
今度は、池の中でうつ伏せ状態の女性が見えます。

まるで、土左衛門のようでした
職員の数名が慌てて助け起こしています。
「お怪我はありませんか?」
全身ずぶ濡れの女性は、放心状態です。
目撃した職員の話では、劇場の入り口に向かって普通に歩いていたのに、急に池の方へ向かって行き、そこで池に足を踏み入れたと思ったら、ご本人も異変を感じられたのか、慌てて、そのまま池の中を5・6歩進んだところで、足を取られて、顔面から池に突っ伏して行ったとのことです。
と、今度は中年の男性が「どぼ〜ん」とやっています。
こちらのずぶ濡れ女性は泣いています。
「私、開場記念公演を楽しみにしていたんですけど、もう、帰ります!」
営業部の女性職員が、売り物だった新品のTシャツと、ジャージの下を持ってその女性に渡しました。
全身ずぶ濡れの女性は、女性職員に促され、慰められるように、救護室に入っていきました。

と、続けて手に靴を持った紳士がロビーに入って来ました。
「スリッパとタオル!」営業部員も慣れて来ました。
結局、この日は5人のお客様が、劇場入り口の人工池の餌食になりました。
開演中、営業部員たちはドライヤーで靴を乾かし、衣装用の乾燥機を使って濡れてしまった衣服を乾かしていました。
緊急会議
開場記念公演のつかこうへい作・演出『銀ちゃんが逝く』の初日は大成功で幕を閉じました。
しかし、18時30分から19時までの客入れ時間帯でのたった30分間で、小劇場前の人工池の餌食になった観客が5人もいたという事が、営業部、制作部の中で問題となり、とりあえず、2日目の夜公演の対策を考える事になりました。

その結果、初台駅を出て、そのまま案内に従って歩いていけば、右の写真のような場所に出ます。
写真の中にある、ブルーの矢印に沿ってまっすぐいけば、小劇場の入り口に辿り着くのですが、どうしたわけか手前の池に入ってしまう人が1人、矢印の右に見える柱と柱の間から、入って水没してしまう人が4人だったので、2日目の夜はこの池に沿って、営業部の職員が一定の間隔をおいて、立つ事になりました。
写真をよく見るとお分かりかと思いますが、開場記念公演の後、水没防止のために設置された金属製の円柱ですが、当時はまだなかったので、その位置に職員が立つ事になりました。
特に、水没者が多かった、写真の柱が4本見えている一番右の柱と、二番目の柱の間には、身長180cmで、体重100kgで坊主頭の巨漢の制作部長が自ら立つ事になりました。
「でかいし、デブだし、坊主だから、みんな嫌がって俺を避けるだろ、それがミソだ」
「今日の公演は俺に任せておけ!」そう豪語していました。
公演2日目
開場予定の18時に合わせ、初台駅から小劇場に向かう道の各要所に、営業部、制作部の屈強な男性陣が立ちました。

そして昨夜、一番水没が起きた場所には、一番屈強な制作部長が立ちました。
「俺がここを、一歩たりとも通さん!」
こんな時、普通は「なんで俺たちこんなことしてんだろ?」
と、疑問を持つ者が、一人位いそうですが、その時は、何故か全員のテンションが高く、さながら賊を迎え撃つ「7人のサムライ」になったつもりでした。
やがて初台駅に電車が止まるたびに、大勢の観客が小劇場を目指してやって来ました。
営業・制作の連合軍の半分は「腕に覚えのある元ヤンキー」もいて、池に近づかないよう、目の前を通るお客様に対し、威圧するように「ガンを飛ばしていました」(関西系ではメンチ切るとも言います)
と、その時です。
制作部長の後ろから、激しい水音が‥!
「あっ!人が‥池に‥」
我々の姿は見えている筈なのに‥
どうも、制作部長の姿を見て、怖くて避けようとワザワザ部長の背中側を通って‥ドボン!
部長の面目丸潰れです。
結局この日、池にドボンした人はその1人だけでした。
しかし、当日集まったアンケートで
「新国立劇場の職員は態度が悪い」
「人相の悪い役人が受付前に立っているだけで、何にも仕事していない」
「スーツ姿の目つきの悪い人たちが大勢並んでいて、ヤクザの葬式みたいだった」
「通路にボーッと突っ立ているだけの奴らが大勢いる、税金の無駄遣い」
などと散々に書かれました。
「‥‥」
入水防止策
毎公演、数人の「池ドボン防止要員」を配置するのも大変だし、大体、世間から「税金の無駄遣い」とか「新国立劇場は人が余ってます」とか言われるし、3日目の朝の営業部・制作部のテンションは「駄々下がり」でした。
「もはや打つ手なし」
何か池に向かわないような障害物を置いたらどうだろうか?
そう営業部と制作部とで相談がまとまり、こういう場合は「新国立劇場総務部施設課」というところへ相談する事になっておりまして、民間から来た我々は「そんなもん、プロデューサーが決めればいいだろう!」とか思っているのですが、どうも、半分、役所から来ている人たちが管理しているので、そこんとこちゃんとしなければならない組織なので、文化庁の出向組が多い総務部に相談に行きました。
「池にお客さんがドボンするので、なんか、障害物を置きたいんだけど」
「そうですか、検討します」
「いや、検討してる暇ない、今夜だって公演があるんだし」

「すぐには無理です、建築法の問題とか、設計者の許可も要りますし、振興会とも相談して‥」
「じゃあ、毎日、池ドボンしろってか?」
「それは、自己責任です」
ダメだ話にならねえ、その上の常務理事のところへ「総務部長を飛び越えて、行っちまおう」
でもって、常務理事の所へ行って「直談判」したのですが、常務理事も困った顔をして、
「具体的にどうすればいいんですか? いずれにせよ今すぐは無理ですよ」
「毎晩、池にドボンしてるんですよ」
「ですが、それは自己責任でしょう」

仕方がないので、急いで「高津小道具」に電話して、ベンチを3脚持って来てもらって、池の淵に置く事にした。
ところが、そのベンチが効果的だった。
「池ドボン防止」に置いたのだったのが、いい塩梅に、ベンチに座って待ち合わせの友人を待つ人や、ひと息つく人もいて、見た目にもなかなかいい感じになった。
その日以降、池に落ちる人は居なくなったのだが、ベンチは借りてきた小道具なので、公演が終わったら返却をしなければならない、池ドボンの根本的な解決にはなっていませんでした。
突然、設置が決まった
結局、千秋楽を迎えた小劇場から、レンタルのベンチは返却され、元のドボンを誘発する危険性がある初台駅からの恐ろしい導線に戻ってしまいました。
開場記念公演の後、新国立劇場が持つ「大劇場(オペラパレス)」「中劇場(プレイハウス)」「小劇場(ザ・ピット)」の3つの劇場とも、舞台機構その他の細かなチェックに入り、しばらくは小劇場での公演はありませんでした。
しかし「池ドボン」が解決されないままなので、現場はイライラを募らせていました。
進まない理由はいくつかあるのですが、そもそも通常「新国立劇場」と呼ばれるのは、我々「公益財団法人新国立劇場運営財団」という、劇場の管理と運営をしている組織で「新国立劇場」のハードは、
「日本芸術文化振興会」いわゆる、隼町の「国立劇場」の所有でして、そこの許可がなければ我々運営財団はハードをいじってはいけないのです。
さらにその上には「文部科学省」という役所があって、なんだかんだ「お伺いを立てなければなりません」
噂では、運営財団のように民間からの人間が沢山いる所に「好き勝手」させる訳にいかない。
というような話が出たり、引っ込んだり‥
でも、その気持ちはよくわかります。
民間から来た、しかも演劇だとかいう怪しい連中の好き勝手させていたら「何をしでかすかわからない、しっかり目を光らせて、奴らの思う通りには決してさせないゾォ!」
そんな感じなのでしょう。
しかし、それに対して我々は「異を唱えたり、反抗することはしませんでした」
「日本芸術文化振興会」から「文部科学省」その先に見えているのが、実は「普通の市民」なのです。
業界内には新国立劇場の誕生を面白く思わない「個人」や「組織」もあるでしょう。
しかし、一番恐ろしく思うのは「世論」や「国民」です。
そもそも「オペラ」「バレエ」「ダンス」そして「演劇」などというものは、遊びに過ぎない、世の中のなんの役にも立たないし、大体、やっている奴らは好きでやってんだから、国が金なんか出す必要はない、それよりもっと必要な人たちがいるだろう、税金はそこへ回せ。
「新国立劇場なんて税金の無駄遣い以外、何者でもない」
一般の国民の中に潜む、そんな声に怯え、恐れる心が「新国立劇場」を設置し、活動を認めている省庁や政治家たちの心の中にあるのが分かるからです。
実際、我々の仲間が某野党議員に呼び出され「日本人にオペラなんか必要ない、演劇なんて道楽にお前らいっくら金使ってんだ、パンフレットだっていくらで作ってんだ贅沢やってんだろ!」

これにより、お客様の池への侵入が防げるようになった。
面罵されて来ました。
そんな諦めムードが漂いていたのですが、突然、池の周りに、「スチール製の円柱とそれを繋ぐチェーン」の設置が決まりました。
何ヶ月も訴えていたのに「なぜ?」
実は、劇場に用事のあった某政治家先生の奥様が‥いや、奥様たちが‥
「やってくれました!」
「派手に!」
「ドボン!ドボン!ドドドボ〜ン!」っと

見事に4人の奥様が、まとめて「池へダイビング」してくださいました。
あまりの事に、劇場の常務理事たちは慌てふためき、その政治家大先生に「超忖度」した「日本芸術文化振興会」か「文部科学省」か?
とにかく何処かから「直ちに対策を!」という勅命が降り、あっという間にスチール製円柱が設置されたのでした。
それ以降「新国立劇場名物、池ドボン」が無がなくなったのです。
めでたし、めでたし?
いや、この国の何かが動く時は、一般の国民よりも、何処かの誰か偉い先生の奥様が、ドジったり、怒ったりした時なのです。
でも、これが本当の危険ゾーンかもしれません。
中島豊